昭和五十六年七月一日 月次祭
 昨日から引き続いて大きなお祭りやら、それから今日は、今日から夏期信行が始まりますので、そしてまたこうしてお月次祭、今朝の御祈念ではやっぱりここいっぱいでした。昨日は四千五百からのお取り次ぎをさせて頂いております。何と言うですかね、大売り出しが続いておるというような感じですね。そしてまた、今晩のこのお祭なんです。それでこうやってみなさんがご参拝になっております。昨日から朝の御祈念、そして昼の夏期信行、そしてまた今晩のお月次祭、その気にならなければ出来ることではありません。もう朝の御祈念に一遍お参りしたから、昼の夏期信行にお参りしたから、ということで終わるでしょうけれども、ほんとに信心がこれでよいということがない。それでいて、ならお互いがその気になって取り組ませてもらうと同時に、今日の昼の研修の時にも話したことでしたけれども、合楽の場合、そのお祭りお祭りの一つの個性がある。
 まあ昨夜は御礼信話会でしたが、これは信話会は信話会でなからんと出らない雰囲気、頂けないお話があるのです。夕べの月末御礼信話会の雰囲気、余韻というものが、朝の目覚まし、朝の御祈念でも続いて今朝からのあのような御理解になっておる。余韻がある。1時からはあのような夏期信行で、それこそお広前が割れるような勢いで信行をみなさんがなさる。どこへんかでやれやれというところでしょうが、そのやれやれを言わずにまた今晩のお月次祭でこのようにたくさんのご参拝があっておる。
 その気になるということと、やはり合楽にはそういう一つの働きというものがある。余韻がある。疲れておる、けれどもその疲れがしゃんとするような働きを受けることができる。そこに私は合楽の信心というか、その気になれば神様が出来んところを、通れないところを通らせてくださるようにおかげが頂けるんだと。
 ところが私は少しグロッキーになって、今のお祭りもやっと仕えたという感じなんです。こういう時には何か甘いものをいっぱい頂きますと元気がでるからと、久富さんに言うて裏から甘いらくがんの粒をがばっと一握り口の中へ入れてからこちらへ出てまいりました。もう今日はお月次祭は若先生にお願いしてご無礼しようかと言えば、もうそれまでですけれども、まあその気でおりますから、私が自分で奉しなけりゃならんとその気になっておりますから出来るのですけれども、その気になっておらなければ出来ないと思います。みなさんの場合も昨日今日続いて、まあ言うなら連続興行ですから、そのすべてにお祭りにも夕べの信話会にも、そして朝からの御祈念にも、そして今晩のお月次祭にもというようにおかげを頂いておられる方がおられましょうが。
 昨日お祭りが済みまして、伊万里の竹内先生がご夫婦で私の部屋に見えられまして、今日から変わるという市役所の人事異動の書いたものを大きくたくさんお届けをなさるのでお出でられました。そして今度の新異動のお願いがあっております時に、私、神様から頂きましたんですけれども、縄をないます時に、昔はワラを軟らかく打ちましたね、今はあんな縄のない方をする人はないでしょうね。きれいにすぐったワラを一生懸命、丹念に叩くんです。ワラが軟らかになるんです。その軟らかになったワラでないますから、強い手触りの良い縄が出来る訳ですけれども、ワラということは和楽ということ。平和の和と楽という字です。それを叩いた上にも叩いて軟らかくして、とにかく良いこと悪いこと様々なことがあるんですけれども、それがあざなえる縄のようになっていかれる。
 私どもが信心の修行に、その気になって取り組むということは、そういう自分の心を和楽に同時に軟らかに、叩いておく、打っておくようなものではないでしょうか。神様へ向けるその心というものが、硬いままでなっても、良い縄はできませんように、まあだから昨日から軟らかいワラを打ち続けておるようなものじゃないでしょうか。
 とにかく竹内先生、よその市長さんはどうか知らんけれども、伊万里の市長さんだけはあなたの和楽の信心、心一つで伊万里市に、市政の上にも、伊万里市発展の上にもおかげをこうむって、また人材というでしょうか、人間関係の上にもこの和楽一本でおかげを頂いていかれるなら、なるほどそれは至難、難しいというところもありましょう。それはシルクロードの道。シルクロードの道とは大変難しいと言われておるんですけれども、これを絹の道、絹ですね、軟らかい絹、絹の道とも言うんだそうですが、難しいところを、それを有り難く、場合には平気で、場合には元気な心でここを乗り越え通り越えて行けれる手立てというものが修行なんです。だから修行の時には、やっぱりきつい。一生懸命にそのことに取り組んで修行をする。きついけれども、そこをなしておかんと、シルクロードの道ということの、やっぱり険しい道、茨の道ということになるのです。お道の信心はそうした例えば茨の道と思われる道であっても楽しゅう、有り難う、しかも愉快に歩いて行けれる道にしていく手立てが、私は合楽理念だと思うんです。事、神様に心を向けた。事、一度その気になった。けれども途中で今日はもうと思うような時もあっても、そこを貫かせて頂いて、初めて楽しいとか有り難いとか愉快にというような道に出ることが出来ると。これは何の稽古でもそうですよ。
 一昨日から、ここの岩部という先生がおります。兄弟三人でここで修行させてもらい、兄弟三人でお道の教師の資格を取りました。ところが弟二人があることで、今里の方へ、福山の方から来ていますが、帰っております。そのことを神様に一生懸命、お兄さんの岩部先生が御祈念させてもらいよったら、ご心眼に、剣道の時に、下に着ける、強い糸でこうした下着に着る着物があるでしょう。それを頂いた。どういうことでしょうかと。だからね、「先生、あんた方はここに、私の信心ばただ見ぎゃ来とるとじゃないばい」。例えばここで剣道の試合があるけん、それば見ぎゃ来とるとじゃない。もうほんとうにめいめいが防具をつけて、そしてその竹刀を持って、そしてここで言うならば剣道の稽古をしておるとじゃ。稽古しなければ、例えば初段とか二段、三段と段は上がっていかん。「信心も手習いも同じこと一段一段上がっていくのじゃ」と仰せられるのですから。ただ十年信心しとるから十年生になるとじゃないということ。稽古する者には勝たん、信心は。これは何でも同じ、特に信心においておやである。
 自分の心がいやが上にも美しくなり、豊かになり、大きくなり、深くなり、そういうおかげを頂いていくことのために、たまにはその気にならなければ出来ることではないような修行もしなければならない。それは昨日、そして今晩のお月次祭にと、ここでのお祭、様々な行事、しかも教会上げてのというような事柄が続いておるのですから、もうかかっておらなきゃならんような感じ。けれどもそこを通り抜けさせていただく時の過程が大事なんだ。有り難いのだ。
 昨日御礼信話会の時に発表しておられましたが、宮崎の石川のおばあちゃんが、こちらに御縁を頂いて始めて親先生にお目にかかった時に「おばあちゃん、お道の信心は一生が修行ですよ」ということを頂きました。そん時に、もう感じた。一生が修行、ほんとに修行に取り組もうと思うたと、合楽に御縁を頂いての数年間のそういう取り組み方から生まれてくる信心またはおかげをずっと話しておられる時に、私のご心眼にここで頂いたのは、みなさんが座っておられる畳の黒い縁を全部取り除いておるところを頂いた。そして十道と頂いた。十の道。だからこれは剣道、柔道ということにも通ずることだ。私、昨日初めてそういうことを感じたんですけれども、本気で一生が修行だと頂いたら、もうその人の上には一生苦労はないということです。畳の縁は黒でしょう。その黒を全部取り除いてしもうた。はあ一生が修行じゃけん一生が修行じゃけんと、こう言いよるけれども、その苦労を感ずることがあるならばです、なるほどきつくもある、苦しくもあるけれども、これが修行だと思うて、元気も出る。喜びも頂いていける。いや、こういう時ほどがんばらせていただくと、次の言うならば信心の上達が楽しいというようにね。
 なるほど柔道のけいこですから、投げられもするでしょう、絞められもするでしょう、それでもう絞められたから「ああー」という、すぐ畳叩くようなことではでけん。それを跳ね返す力、いよいよん時は絞め殺されるけんね。けれども絞められもしよう、投げられもしようけれども、絞められ、投げられしていくうちに、初段が二段に二段が三段になっていくんでしょう。
 信心のけいこ、それは「この世はあの世のためにある」とさえ言われるのですから、そういう大変なものを頂こうとする信心なのですから、柔道、剣道ぐらいのことではない、言うならば、それに取り組む姿勢というもんがいるんだ。本気で一生が修行だと、心に決めたら、もうその人の上には苦労はないということです。そういう信心にいわばその気にならなければならない。
 石川のおばあちゃんが数年前に、心にそのことを決心したと、こう言われる。それこそ宮崎の地にたくさんの人がお導きを受けて、今日おかげを頂いておる。今年はいよいよ11月ですか、あちらの支部が結成されて丸5年になる。そのために宮崎、高鍋で、または延岡あたりの分会の先生方だけじゃない、ご信者さん、幹部の信者さん方が何回も何回も寄ってそのお祭りをいかに仕えるかということの協議があっておるということでございますが、そういう働きがね、宮崎の地に起こったその元をつくるというほどしの、いうなら神様に喜んでいただくような、安心して頂くような、ほんとにお導きでもできにゃ、神様に喜んでいただく、神様は人のお供えが一番喜びなさるげなけんというて、話しても人が助からないといのは、私は、まあだ、あなたに、それだけの力がないからなのだ。まあだ、あなたの修行不足だからだというふうに頂いたら、間違いないと思います。
 それにはね、一生が修行だという、もうどれだけ聞いたか分からない御理解なんですけれども、それを本気で、私の生涯を修行で終わるということを決心した、同時にいわゆる一心発起した、そこから、どんなにきついことがあっても、それを修行としていただきぬいていかれる。
 なら昨日今日のように、合楽では連続興行の中にもです、どの場合であっても、どのお祭りであっても、誰々さんの顔が見えておるというのは、やはり、そういう修行にいよいよ取り組んでおられる姿だというふうに思います。
 今日、一時の信行の後に頂きますミニ御理解が、御理解10節から始まりました。神様にお願いをさせて頂いておりましたら、信心にはね、あなたが拝んでおられる神様はどういう神様ですか、「この神様が社に入られたら闇になる」と仰せられる。そういう神様なんです。天地金乃神様というのは、そういう性質の神様なんです。だからこの神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのです。立ちいっておるようであっても、それは忘恩の生活にしかならんのです。そういう働きを受けて、そういう神様のお心に添い奉る生き方を頂いていくのが、お道の信心なんです。
 いうなら、そういう神様ですと、分かっただけではいけない。確かに自分の心にも身体にも、それを感じる神様でなければならない。
 そのことを神様にお願いさせて頂いておりましたら、ちょうど「ラケットとボール」を頂いたんです。テニスの、ただ空振りをしたのと、向こうから玉がきたのを向こうに打ち返す、確かに手応えがある、私はテニスはしたことがありませんが、だろうと思います。空で振るのと、向こうからきたボールを受け止めて、ポーンとこう打ったときには、必ずいうなら、受け応えがある。
 それは例えば鉄砲を撃ってもね、鳥を撃つ鉄砲を撃ちましてもね、だいたいそれがなかごとあるけど、それこそ、確かに手応えあったというようにね、お芝居なんかでも申します。確かに手応えがあるんです。もう空だから、向こうに当たったかどうか分からんのだけれども、確かに当たった時には手応えがある。
 ちょうど、神様と私どもの間に、なるほど神様だなあ、神様は生きてござるなあ、というようなものをね、感ずる、その手応えがね、その気になれば与えられる、それを見せて頂ける、聞かせて頂ける。
 今日、私、信行が済んで、あの日田のお方でしたか、福岡に兄弟がおる、それで福岡の信者さんにお願いして参ってきてもらいたいと、電話をかけられた。ところがおられなかった。そこんにきはどうか知らんけれども、ご夫婦が初めてお参りをしてきたんです。そのことは言われない。そしたら今日福岡から参って来た方が、ちょうどいつもそんな時間に参ってくるんじゃない、もう今晩があるから、大体参って来なさるはずはないのだけれども、夫婦が参って来なさった。そしたらあちらで、なんかこうえらいお話がありよりますから、どうしたことじゃろうかと思いよったら、池田先生が、もうほんとに恐れ入ってしまいますというふうにして、昨日電話がかかっておって、言うならばその方と、ここでちょうど会われた、その人と会おうと思うてじゃないけれども、今日もたくさんの人が参って来た中に、その福岡の方と日田の方との出会いがね、ここであって、私はその話は聞きませんけれども、そこでなにか話し合いができておる。
 その方は大変難儀な病気をもった方であった。けれども、こういう間違いのない、御理解をそういう御理解を頂いた。もうとにかく間違いのない神様ですよと。昨日ね、ここで、昔は大祓い式と言いよったけれども、今は交通安全祈願・悪疫予防の大祈願祭があったんですが、四千五百からのご参拝と、それからちょうど去年は一年間で、合楽で千八百五十台の車をお祓いさせて頂いた。千八百五十台の交通安全の御神米が出来ておった。それがちょうど昨日一昨日でおしまいになった。
 もう私は去年もそうでしたけれども、すさまじい神様の働きをそこに感じずにはいけませんね。きちっと神様が「今年は千八百五十台の車がここにお祓いを受けにくるぞ」と、もうきっちり昨日一昨日でおしまいになっております。そういう神様の間違いのない働きを受けて、ここのご信者さん方はおかげを受けていくのですから、どういう例えばあなたの病気がどうであっても、そういう働きを受けて、おかげを頂くためには、あなたがその気になりなさなければだめですよというようなお話を頂いて、そこまで下がったときに、昨日から続いておる、まだ見たことも会うたこともない、いうならそのご信者さん方がそこで会うとる訳です。今日は、そうだったんでしょう、やっぱり。そこに、名前は忘れました。え、え、西原さんね、会われた方が、その方だったんでしょう。西原が、参ってきたのじゃない、神様が参らせておったということをね、感じますよ。ですからその方はおそらく思うた。はあ間違いない神様だなあ。今、先生が間違いない神様の働きという話を聞いたけれども、なら自分もお願いに来たから、自分の上にも、そういう働きが起こるに違いないというような心で帰られたのではなかろうかであったら、おかげは、また受けられるだろうと思います。
 そういう働きが合楽のお広前にはいっぱいあっておるわけです。みなさんの家庭においてもやっぱり同じことが言えるわけですけれども、お互いがその気にならないと、分からない。日々を言うならば手応えがある。確かにお参りすることはお参りした。確かに御用いただくことは頂いた。けれども頂いただけで、それが空の、何にも手応えがないならば、こりゃ考えなければいけない。手応えのある、その気になるということは、どういうことなのか、本気で思うて見なければいけません。
 そして今も剣道、柔道の話が出ましたように、見ておるだけでは絶対上達はしません。信心も見ております、聞いております、合楽理念をそら暗記しましたというたところで、おかげになるものではありません。それを実験、実証していく、その日その日に、それを取り組んでいく。そこから場合には失敗もある、場合には絞められ、投げられもするでしょう。場合には、うかつにしとってバーンと叩かれることもありましょうけれども、しっかり防具をつけて、構えておるから痛くない。防具をつけとらんけん叩かれたら痛かったということである。やはり構えが大事である。
 そして言うならば石川のおばあちゃんではないけれども、一生苦労知らずのおかげを頂きたい。あるものは一切神愛、あるものは一切、そのための修行、そのような頂方が血に肉になっていくようなおかげを頂いて、石川のおばあちゃんの、例えばお導きに回られる。そんな有難い神様なら連れて参ってくれということになる。これはすでに手応えだと思う。手応えを感じさせていただける信心から、いよいよ神我とともにありという実感、この信心のいうならば喜び。この信心の心の安らぎ。
 合楽ではね、そのときの、一日のうちにはいろんな会合がありますが、会合の一つ一つが一つの性格をもっておる。ですからね、もうほんと言うたら、どの会合にでも出なければおられない。そんなものを感じます。
 今、私のお手洗いに、もうお手洗いに行くのが楽しい、そんな感じがするんです。月見草が入れてある。佐田さんがこちらへ来られる時に、途中で摘んでこられた花でしょう。もう夕べ、それこそ、匂うよな花がね、咲いている。ほんとに匂うようなという感じです。朝はまたしおれておりますけれども、別な花がパッと咲いておる。こういう例えば月見草のごたっとは、どこんでんいっぱいあるばってん、こんなして楽しんでいる人があるだろうかと、私はお手洗いに行きながらいつも思う。昨日から行くたんびに思いよる。心がけ一つで、どういうような野に咲いておる花の中からでもです、この花でなければ味わえない、それこそ、匂わんばかりの味わいを感じれれるものをもっておる。
 そういうよいうなものが合楽の場合余韻になっておる。昨日の大祓式の余韻が、そして昨日の月末御礼信話会に、その信話会の余韻が朝の御祈念にも残っておる。その朝の御祈念の余韻が1時のあの割れんばかりの信行につながっておる。
 今日はお月次祭でもありますから、そういうふうで、信行が終わった後でもずっとお参りが続いておりました。その一つ一つのお取次ぎをさして頂きながら、そういうあれこれの余韻が今晩のお月次祭、体の方は大変きついですけれども、そういうなんとはなしの余韻がね、今日、私が御用できたということになっておる。
 合楽の場合は、そういう何かが、その気になれば頂いて帰っていけるのです。そのつどに。それをお互いの信心、合楽理念を頂いておる者の喜びとしていきたいと思います。 どうぞ。